「流れる雲のように」 第13話 末井昭
13. ストリーキング
目黒クインビーの「おらが国さのオ○ンコ祭り」以来、仕事に身が入らなくなっていました。そして、季節は秋になりました。
秋になるとキャバレーの催し物も、「赤く染まったもみじの祭典」だとか「おぼこ娘のきのこ狩り」だとか「お色気もみもみ運動会」だとか秋っぽいものに替わり、それに合わせてチラシやらポスターを作らないといけないので、季節の変わり目は忙しくなります。「お色気モミモミ運動会、乳もめ!乳もめ! オ○ンコちらちらクインビー娘も大ハッスル!!」とか、どうでもいいコピーを考え、情念がどうしたとかアンチモダニズムでどうするとか、そういうことは一切考えないようにして仕事をするようにしていましたが、そのぶん自分がどんどん空虚になっていくようでした。
芸術の秋です。仲のよかった同僚のカメラマンも芸術に燃えだしました。自分の作品を作りたいから僕にモデルになってくれと言います。僕は「え? 僕がモデル? この顔で?」と思いましたが、そう言われて嬉しかったのも事実です(ナルシス入ってますから)。
そのカメラマンは立木義浩が好きでした。立木さんがハーフの女の子を撮った「舌出し天使」が載っている『カメラ毎日』を持ってきて見せてくれました。「こんな写真が撮りたいんだろうなあ」と思いました。「でもそれ、僕じゃ無理だよ」とも思いましたが、僕は黙っていました。
写真はカメラマンのアパートで撮ることになりました。当日彼のアパートに行くと、どこから連れてきたのか若い女の子も一緒でした。
裸になってくれと言うので、僕も女の子も裸になって、狭い押し入れの中に2人で入ったりしました。そのうち、カメラマンは女の子の方にばかりカメラを向けようになり、なんとなく僕は邪魔者になったような気持ちになりました(裸のまま邪魔者扱いされると、すごく恥ずかしくなります)。
この撮影がきっかけで、僕もカメラを買って写真を撮るようになりました。全裸でオナニーしている自分の写真をセルフタイマーで撮ったり、町のスナップを撮ってプリントし、歩いている人を全部真っ黒に塗りつぶしたりしていました。不忍池を撮った写真で周りにいる人を全部黒く塗りつぶしたらあの世の写真のようになって、僕はそれを結構気に入っていました。
しかし、そういう写真を撮っても発表の場がありません。キャビネサイズにプリントしてノートに貼ったりするだけでした。
秋も深まった頃、突然ストリーキングをしようと思い立ちました。ストリーキングは全裸で町を走る行為のことですが、芸術表現の一種で露出狂的なこととは違いますよ。
といっても、裸で町を走りたいと思っただけで、僕がストリーキングという言葉を知っていたかどうかは覚えていません。当時、全裸で街頭パフォーマンス(その頃はハプニングと言っていました)をするゼロ次元という前衛芸術集団は知っていましたが、その頃ストリーキングをやった人がいたかどうかは知りません。
なぜストリーキングを思い付いたかというと、これもアンチモダニズムデザインの発想からです。モダンなものに対して土着的でドロドロしたもの、昼に対して夜、背広とネクタイに対して全裸……といったモダンでメジャーなるものの裏返しとして、昼間チャラチャラしているデザイナーが寝静まった真夜中、闇の中を全裸で疾走し、アスファルトに情念のイラストレーションを描く、といったイメージが頭に広がったのでした。
この話を立木義浩好きのカメラマンに話すと、自分が写真を撮るからぜひやったらどうか、と言ってくれました。
それからは頭の中がストリーキングのことでいっぱいになり、何か自殺を覚悟した人みたいに思いつめてしまい、性的不能にもなりました。ときどき夜中に走り回り、突然電柱によじ登ったりして、ストリーキングの見せ場の練習みたいなことをやっていました。
1970年11月24日の夜(なぜこの年月日を覚えているかは、この文章の最後を参照)、看板で使うネオカラー(水性ペンキ)のカーマイン2缶を入れた紙袋を持って、カメラマンと2人で上野の深夜喫茶に入り、夜が更けるのを待ちました。何を話したか忘れましたが、話に熱中してしまい、深夜喫茶を出たときは25日の午前4時頃になっていました。早くしなければ夜が明けてしまいます。
まずネオカラー2缶を、ストリーキングの終点と決めていた御徒町の松坂屋近くの植え込みに隠しました。それから上野駅のほうに戻り、ガード下で全裸になりました。人通りが少ないので、全裸になっても誰にも気付かれません。そして、持ってきた数珠を首に掛けました(これもまあ表現です)。脱いだ衣服はカメラマンが持ってくれました。
上野中央通りの歩道を御徒町方向に走りました。カメラマンも走って追い掛けてきます。走るだけでは単調なので、カメラを意識してシャッターによじ登りました。ゴミの山があったので、そこにダイブもしました。走っていると、朝帰りのホステスさんが「かっこいいわよぉ~」と声を掛けてくれました(バカにしてたかもしれませんが)。かなり寒かったと思いますが、寒さはまったく感じませんでした。
御徒町の松坂屋前まで来ました。植え込みに隠していた赤のネオカラーを取り出し、頭からかぶりました。そして中央通りから少し入った道路を転げ回りました。カメラのフラッシュが光ります。そのフラッシュに触発されて、もう1缶のネオカラーもかぶり、道路をゴロゴロゴロゴロ。真っ赤な素晴らしいイラストレーションが描けたと思っていたら、松坂屋の守衛さんが向こうから見ています。おそらく車に轢かれた男が悶え苦しんでいるように見えたのではないかと思います。
警察に通報されたらまずいのでカメラマンと逃げました。上野駅方向に少し行ったあたりで、カメラマンに持ってもらっていた服を、ペンキをかぶったままの状態で着ました。
タクシーを止めて、カメラマン、僕の順に乗りました。バックミラーで運転手さんと目が合うと、僕が真っ赤な顔をしているのでギョッとした顔になりましたが、何も聞きませんでした。喧嘩でもしたと思ったのでしょうか。
タクシーで野方のカメラマンのアパートに行きました。シャワーを借りてペンキを洗い落とし、カメラマンの衣服を借りて、昼頃まで寝ました。
目が覚めると、カメラマンが興奮して「三島由紀夫が切腹した」と言っています。テレビを見ると、自衛隊市ヶ谷駐屯地からの中継が映っていました。カメラマンは三島由紀夫のファンでした。それから1人でずっとテレビを見ていました。
おかげで、僕のストリーキングのことはなんとなく忘れ去られたようになったのですが、あのときの快感はいまでも体に残っています。