まだ終わらない 第一話「母子避難」 / 芳賀由香
まだ終わらない 第二話「帰省」 / 芳賀由香
まだ終わらない 第三話「父 奮迅」
まだ終わらない 第四話「小学校教師」
ようこそ放電横丁へ!
ようこそ放電横丁へ!
ここはマンガ誌『アックス』のweb版です。
現在、郡山在住のマンガ家、芳賀由香さんの原発問題を描いた「まだ終わらない」を連載中ですが、
この場所でマンガやコラムを放電予定です。
現在放電準備中として、
- 末井昭(小説)
- 清水おさむ(マンガ・デビュー作『魔血子』/1974年ひばり書房)
があります。
準備終了作品から随時配信して行きますのでお楽しみにお待ち下さい!
「魔血子」ひばり書房刊 第一回
宛名印刷でラクをしよう ~ドットインパクトプリンタ~|紺さん@ホーム法務 のブログ
[flash] 背景を全画面にフィックスするSWFテスト | Labrid WP
シンプルな画像ギャラリーに使えるjQueryプラグインをつくってみた - 小窓屋めがね
Human People Cartoon Heads clip art | Download free Vector
Mascota Sol | Download free Vector
「魔血子」ひばり書房刊 第二回
まだ終わらない 第五話「フクシマ・レジェンド」
「流れる雲のように」 第1話 末井昭
「流れる雲のように」 第1話 末井昭
年をとってくると、記憶の遠近法が狂ってきますね。昨日のことがまったく思い出せないのに、30年ぐらい前のことを鮮明に思い出したりします。 これから書いていくのは、僕の20歳前後の話です。タイトルは雲を見ているのが好きだからつけましたが、怒髪天の「流れる雲のように」も好きです。「どんなにあせっても いずれは土の中」ですよね。
いまから45年もむかしのことなのに意外とよく覚えているのは、脳細胞がまだ若かったからでしょうか。あるいは、そのころはめまぐるしく仕事や環境が変わったので、見るもの聞くものが新鮮だったからかもしれません。
1. 工場、憧れと失望
僕が高校を卒業して就職したのが、大阪の枚方にある日本精線という会社でした。 ステンレスの線を作っている会社でしたが、特別ステンレスに興味があったわけではなく、工場そのものに憧れていたのでした。だから、大きな工場ならどこでもよくて、高校に来た社員募集のパンプレットを見て適当に選んだのがこの会社でした。
なぜ工場に憧れていたかというと、中学生のころ岡山の水島臨海工業地帯を見学に行ったとき、その規模の大きさに驚くとともに、モクモク煙を吐く工場が目に焼きついてしまったからです(まだそのころは公害という言葉もありませんでした)。何か、巨大なエネルギーのようなものに惹かれたと言ってもいいかもしれません。それと、僕が生まれたのは岡山県の山奥の村だったので、なおさら工場がカッコよく見えたのでした。
1960年代のことですから、生産業が時代の先端でした。高度経済成長の後期で、人手不足から、中卒で働く人たちを金の卵と呼んでいた時代で、中学の同級生は半分は金の卵になりました。そういう時代だったので、応募用紙を送れば即採用でした。
この会社を選んだのは、大阪に工場があるということも理由の1つでした。
夏休みに、高校の同級生に連れられて、その同級生の親戚が大阪でやっている小さな工場にアルバイトで行ったことがあります。その同級生はときどき大阪に行っているようで、「大阪の女はきれーじゃぞ」とよく言っていました。確かに、町を歩いている「大阪の女」はみんなきれいでした。
アルバイト中は、豊中のアパートで暮らしていました。このとき初めてスーパーマーケットというところに入ったのですが、カゴに入れたものをレジに持って行くというシステムを理解していなくて、カゴごと持ってアパートまで帰ってきたことがあります。無意識の万引きです。都会の雰囲気に圧倒されてボーッとしていたのかもしれません。
伊丹空港に着陸する飛行機が、轟音を立てながら低空で飛んでいる姿も目に焼きつきました。なにしろ飛行機を見るのも初めてでしたから。
そういう大阪での数週間の暮らしで、大阪がすっかり気に入って、高校を卒業したら大阪に就職したいと思っていました。というか、早く田舎を脱出したいと思っていたので、都会ならどこでもよかったのですが。
同じ会社を選んだのは僕ともう1人、Kくんという同級生でした。2人で山陽本線の電車に乗って大阪に行ったのですが、枚方というところは、大阪と京都の中間ぐらいのところにあるということを初めて知ったのでした。しかも僕らが働く工場は、枚方駅からだいぶ離れた、まわりに何もない荒涼としたところでした。「あれ? 想像していたところと違うぞ」と思ってガッカリしました。僕が想像していたのは、大阪の町のど真ん中にそびえる工場でした。まあ、そんなところに工場はないのが当たり前ですが。
工場から少し離れたところに、鉄筋3階建ての寮がありました。全国(といっても主に西日本と九州ですが)から集められた高校生たちは、この寮で暮らすのです。
僕とKくんは同じ部屋になり、Kくんは研究室みたいなところに配属され、僕は現場で働くことが決まりました。それまで配属先を聞いていなかったのですが、漠然と研究室みたいなところで働くことを想像していたので、このときも「あれ?」と思いました。どういう基準で配属先を決めているのかわかりませんが、僕はKくんより学校の成績がよかったから、Kくんのほうが研究室に配属されるということが納得できませんでした。成績なんか関係なく、単に僕のほうが体がデカいから現場にまわされただけかもしれません。
その現場は、太いステンレス線の先を削って、ダイヤモンドの穴に通して、それをウィンチで巻き取る作業をしていました。ダイヤモンドの穴を何回か細くしていって、だんだん細い線にしていくのですが、線が細くなるにつれときどきパチンと切れて飛んできます。
24時間フル操業で3交替でした。1週目が8時から16時、2週目が16時から24時、3週目が24時から翌朝8時というふうに、1週間ごとに勤務時間がズレていきます。
作業はステンレス線の入れ替えだけで、あとは機械が動いているのを見ているだけですから、肉体的疲労はさほどなかったのですが、夜勤のときはゴーッという工場の騒音がだんだん気持ちよくなって眠くなってきます。そういうときに限って、パチーンと線が切れて飛んでくるので、うっかり居眠りなんかしてると怪我をしてしまいます。
寮は当然男ばかりです。朝と夜はまかないつきで、食堂に行くとワイワイガヤガヤ騒がしいのですが、みんな方言なので何を言ってるのかよくわかりません。何か、自分がとんでもないところに来たんじゃないかという思いが日増しに強くなってきました。
寮の近くにみんながよく行く食堂がありました。酒を飲んだりしてくつろぐ唯一の憩いの場で、僕もときどき行っていました。僕は酒が飲めなかったのでラーメンを頼むと、ドンブリに入ったチキンラーメンが出てきて店主がお湯をかけてくれます。「えっ? これでお金取るの?」という感じですが、それでも美味しいと思って食べていました。
友達を見つけようと思ってラグビー部に入りました。練習は近くのグランドのラグビーコートで、ゴールからゴールまで全速力で走らされました。思っていたより距離があってヘトヘトになりました。2、3回練習しただけで、人数が足らなかったのかいきなり試合に出され、僕は後列フォワードにまわされました。相手は小松製作所で、スクラムのときは足を蹴られたりしながら、数えられないぐらい点を入れられ惨敗でした。
そういう生活も2ヵ月ほどすると慣れてきたのですが、僕が想像していた工場と現実の工場とでは大きなギャップがあり、この先どうなるんだろうと不安になってきました。いや、想像していたというより、工場の外観に憧れていただけで、その中はどうなっているのか、どういう仕事をしているのか、想像したこともなかったと思います。バカといえばバカですけど、なんでもよく調べないで行動してしまうところがあって、それがもとでひどい目に合うこともその後たびたびあります。
田舎にいたとき、よく山に登っていました。山の上で、流れる雲を眺めながら、山の向こうの遥かな先の都会へ行きたい、工場で働きたい、といつも思っていましたが、工場に勤めてわずか2ヵ月で失望に変わっていました。
夜勤明けのときは、よく工場の煙突に登って遠くを眺めていました。そして「ここじゃないどこか」に行きたいと思うようになっていました。
田中六大マンガ劇場第一回「水で膨らむ」
マンガ家、絵本作家として活躍する田中六大氏が毎回自由に描くwebマンガ連載。
マンガ家、絵本作家として活躍する田中六大氏が毎回テーマもページ数も自由に描くwebマンガ連載。
田中氏がどんな世界を見せてくれるのか? どうぞお楽しみに!
【田中六大】
1980年生まれ。多摩美術大学大学院修了。あとさき塾で絵本創作を学ぶ。
第7回アックスマンガ新人賞佳作。第50回ちばてつや賞佳作。第5回ますむらひろしコミック大賞受賞。
著書として
・漫画
クッキー缶の街めぐり(青林工藝舎)
・絵本の作・絵
でんせつのいきものをさがせ!(講談社)
・絵本の絵
だいくのたこ8さん(作・内田麟太郎/くもん出版)、しょうがっこうへいこう(作・斉藤洋/講談社)、ねこやのみいちゃん(作・竹下文子/アリス館)など
・児童書のさし絵
音楽室の日曜日(作・村上しいこ/講談社)ひらけ!なんきんまめ(作・竹下文子/小峰書店)願いのかなうまがり角(作・岡田淳/偕成社)など
http://www.rokudait.com/
「流れる雲のように」 第2話 末井昭
「流れる雲のように」 第2話 末井昭
年をとってくると、記憶の遠近法が狂ってきますね。昨日のことがまったく思い出せないのに、30年ぐらい前のことを鮮明に思い出したりします。 これから書いていくのは、僕の20歳前後の話です。タイトルは雲を見ているのが好きだからつけましたが、怒髪天の「流れる雲のように」も好きです。「どんなにあせっても いずれは土の中」ですよね。
いまから45年もむかしのことなのに意外とよく覚えているのは、脳細胞がまだ若かったからでしょうか。あるいは、そのころはめまぐるしく仕事や環境が変わったので、見るもの聞くものが新鮮だったからかもしれません。
月末締め切りのこの原稿でしたが、半月ほど遅れてしまいました。すみません。ちょっと忙しかったのです。
なぜ忙しかったのか、宣伝を兼ねてお伝えします。
まず、11月1日に僕の『自殺』という本が朝日出版社から出ます。ブログで連載していたものですが、本にするにあたり、かなり書き換えました。またブログでは書かなかった章を1つ加えました。その原稿やら校正やらで忙しかったわけです。この『自殺』は、自殺を勧める本ではありません。自殺を思い留まって欲しいということで書きました。暗くないですからみなさんぜひ読んでください。
それと、11月15日に僕が最初に書いた本『素敵なダイナマイトスキャンダル』が復刊ドットコムで復刊されます。北宋社、角川文庫、ちくま文庫と渡り歩いた本ですが、今度は再び大きくなって四六版です。僕が42年前に描いた恥ずかしい劇画も掲載されますので、こちらのほうもよろしくお願いします。
2. 逃げて、川崎
中学を卒業して同級生の半分は金の卵になったのですが、自衛隊に入った同級生もいました。自衛隊に入れば、給料をもらいながら勉強もでき、特殊自動車の免許も取らせてもらえるとかで、その同級生は張り切っていましたが、曲がりなりにも軍隊ですから、そんなに簡単に入っていいものかと思ったりしました。それに、僕は自衛隊そのものが嫌いでしたから、自分とはまったく縁のないところだと思っていました。
ところが、日本精線に入社して2ヵ月を過ぎた頃、新入社員は自衛隊に体験入隊させられるという噂が流れました。寝耳に水というか、不意打ちというか、入るときそんなこと何も聞いてません。会社案内にそのことが書いてあったら、おそらく僕はこの会社を選ばなかったと思います。
なんでも銃弾を作っている関連会社があるそうで、その銃弾は自衛隊に納入しているらしく、そういう関係から、士気を高めるために新入社員を自衛隊に体験入隊させると言うのです。僕は集団行動が苦手だったし、嫌いな自衛隊にたとえ体験入隊でも行きたくありません。それに、士気を高めると言っても、士気なんか最初っからありません。
それまでこんな会社は辞めてしまおうと思ったり、もう少し我慢しようかと思ったりしていましたが、自衛隊の話を聞いたとき辞める決心がつきました。
といっても、行き先がありません。退社を決心したときから、新聞の求人欄を見て大阪市内の会社を数件廻ってみたりしたのですが、入りたい会社はありません。父親が川崎に出稼ぎに行っていたので、父親にも就職先を探していることを伝えておきました。
父親は、いまでいう派遣会社のようなところにいて、三菱重工川崎自動車製作所というところで働いていました。その会社が中途採用しているという返事がきたので、履歴書を書いて父親に送ったら、面接もなしで採用されることが決まってしまいました。また工場かと思いましたが、父親が住んでいるアパートに転がり込めば家賃がタダになるので、川崎に行くことにしたのでした。
一緒に就職したKくん以外に友達もいなかったので、辞めることになんの未練もありませんでした。しかし、入社3ヵ月で辞めるというのも何か言いづらい雰囲気だったし、言うのも面倒だったので、逃げることにしました。
逃げるにしても、まずお金が必要です。わずかな給料を2回ほどもらいましたが、手元にお金なんか残っていません。仕方がないから、枚方の電器屋さんでステレオ(いまでいうオーディオですね)を月賦(いまでいうローンです)で買い、それを寮の人に売りつけてわずかなお金を作りました。Kくんに川崎に行くことを話したら、「頑張りゃえーが」と励ましてくれました。
善は急げと、布団袋に布団を詰め込み、夕方の人のいない頃合いを見計らって寮を出ました。荷物が布団だけというのも寂しい話ですが、布団はかなりかさばります。枚方駅行きのバスに乗ると、大きな布団袋を担いで乗ってくる僕を、みんながジロジロ見ます。
枚方駅から、なぜか京都ではなく大阪に出て、東京行きの鈍行に乗りました。鈍行にしたのは、無賃乗車だったからです(入場券ぐらいは買ったかな)。
空席だらけの車内の網棚に大きな布団袋を乗せて一息ついた頃、ゴトンという音とともに列車は動き出しました。逃げているのか、何かに向かっているのかよくわかりませんが、不安はまったくありませんでした。しいて不安と言えば、車掌が回ってくることですが、鈍行だからたぶんこないと思っていました。
不安はないけど、かといって希望があるわけでもなく、なんの感慨もなく窓の外をただボーッと眺めていました。そのうち、疲れたせいもあって眠ってしまいました。
次の日の朝、列車は川崎に着きました。父親が住んでいるアパートは平間というところにあったので、川崎で南武線に乗り換えました。改札がないのでホッとしました。
川崎から4つ目の駅、平間に着いたのですが、問題はどうやって改札を通るかということです。最初は、走って改札を突破してそのまま逃げようと思っていたのですが、それには布団袋がじゃまです。ホームでしばらくたたずんでいたら、ホームの一番先のところが踏切になっていることに気づきました。電車を待つようなふりをしながらホームの端まで歩き、ホームから飛び降り、踏切から逃げました。誰も追い掛けてはきません。大成功です。
こうして、やっと平間にたどり着きました。そこは労働者の町でした。
三菱重工川崎自動車製作所は、トラックを作っている会社で、僕は精密測定というところに配属されました。流れ作業でトラックが組み立てられていくラインがある大きな工場の中に、ガラス張りで冷暖房完備の部屋があります。そこが僕の職場でした。1週間に1台、量産されているトラックのボディを抜き取りで運び込み、図面通りにできているかを測定するのが仕事でした。冷暖房完備にしているのは、計器が狂わないためです。
精密測定には、僕より10歳ほど年上の先輩が1人いました。この人は以前はテキ屋をやっていたそうで、テキ屋手帳というものを持っていて、その手帳を見せてもらうと、カレンダーに全国のお祭りが細かく記載されていました。この仕事に飽きたら、またテキ屋に戻るかもしれないと言って、その手帳を大事にしていました。
精密測定の部屋には、真ん中に水平に保たれた大きな常盤があり、その上にトラックのボディを乗せて、いろんな測定器を使って各部の寸法を測ります。その常盤の下に人が1人横になれる穴がありました。先輩はときどきその穴に入って寝ていたので、その穴はたぶん先輩が作ったのではないかと思います。トラックのボディは2日もあれば測定できるのですが、ノルマは1週間に1台です。あとは何もすることがないので、汗をかきながらラインで仕事をする人たちを横目に、先輩と交替で常盤の下に入って寝ていました。
冷暖房完備の部屋で毎日昼寝をしている僕に比べて、父親は最悪の職場で働いていました。通称「地獄の3丁目」と言われているバラシというところで、フックに引っ掛けて吊るされた真っ赤に焼けたエンジン部分の鋳物の砂を、鉄の棒で取る仕事でした。ここは仕事がきつくて、三菱重工の正社員は誰も行きたがらないので、父親のような派遣労働者を使っていました。熱くて汗だくになるので、みんな塩を舐めながら仕事をしていて、その現場を見たとき、父親がちょっと気の毒になりました。
父親が住んでいたアパートは、6畳1間のボロアパートでした。父親が三菱重工で働き始めたのは僕が高校に入った頃で、これまでずっとバラシをやりながら、三菱重工の正社員に嫉妬と恨みとコンプレックスがあったようです。僕が正社員になったことで、見返してやったような気持ちがあったのではないかと思います。そういう意味では、多少の親孝行をしたような気持ちもありましたが、父親と狭いアパートで暮らすのは苦痛でした。
父親の話はいつも暗く、あと何年働けるかわからないとか、同僚にわざと足の上に鋳物を落として骨を折って傷害保険をもらったのがいるとか、自分もやってみようかとか、聞いていて気が滅入る話ばかりでした。
父親とアパートにいるのが嫌で、土曜日は川崎のミスタウンによく映画を観に行っていました。高倉健の「網走番外地」シリーズを始め、観るのはだいたいヤクザ映画でした。土曜日は映画館はオールナイトになり、川崎の労働者で超満員でした。
映画を観ているときは現実を忘れますが、映画館から出ると、またあのアパートに帰らないといけないのかと思い、暗い気持ちになってきます。殺伐とした川崎の町を駅に向かって歩きながら、あのアパートから逃げ出すことばかり考えていました。
「ハルさんちのハンドメイド~大きな手小さな手」 第一回 池田ハル
「ハルさんちのハンドメイド~大きな手小さな手」第一回 池田ハル
ごあいさつ
少し前のこと、久しぶりに編集部へうかがいましたら「何か、洋服のことについて描いてみませんか」とお話をいただきました。ちょうどその時に持参したのが、モードにまつわるマンガだったのですが。実はわたしはそんなにお裁縫が得意なわけではありません。自分ではパターンもひけませんし、この頃はミシンを出すのさえおっくうでー。
まぁでも、お洋服が好きで、小物やらをチクチクと作るのは大好きですから、「手作りのこと」について、ちょこっと書かせていただきますね。好きこそものの上手なれということで。
あと、それから、この頃の制作にかかせないアシスタントがおりまして、うちのアイデア・ガール~「娘さん」(5歳)デス。むしろわたしが彼女のアシだったりするのですが。
作家さんのワークショップや講座への参加、お友だちも一緒にお絵描きや工作、公園の草花さえ材料にして、日々のラクガキから力作まで、おうちで手作り!!「大きな手と小さな手」をよろしくお願いします。
タイトル・ロゴは刺繍というか、紙刺繍のようなモノになりました。あれこれくっつけはじめると止まらなのでこのへんでやめときましたー。
1. 羊毛フェルトのマフラーとヘア・ポンポンなど
羊毛フェルトでマフラーを作りました。親子で1つずつあります。
この春から親子で通い始めた「こどもの城」の講座「親子でアート」で作ったものをおうちで完成させました。
これまでにもいろいろな講座へ参加してあれこれと作りましたが、このマフラーはホントにかわいいと思うー!!
さっそく公園で撮影をしました。早くもっと寒くなるといいのに。この冬のオシャレのポイントになりそうです♪
以前から気になっていた羊毛フェルトー
この授業でハートに火がついたようです。もっと羊毛で何か作りたい!せっかくなので、娘さんのお友だちを招いておうちで作ることにしました。
ハルさんちのワークショップ その1
羊毛フェルトの髪飾り=ヘア・ポンポンをつくろう。
お友達だちのRちゃんと娘さん。想像はしていたけど、制作への興味が最初の15分くらい。お部屋の他のおもちゃや別のことに心奪われて。しかも、マフラーではそれほど使わなかったニードルや針を使うためちょっと危ない。羊毛フェルト・ヘア・ポンポンはほぼママたちだけの制作にー。
こどもたちは、今回の材料を使ってカードを作りはじめました=「キラキラカードをつくろう」(予定変更)
「ママにお手紙かくの」と、Rちゃん。そこには「ままこうえんいこう」と書かれていたのでー
ワーク終了。公園へあそびにいきました。次は30分くらいでできることをやろう。
ポニーテール船長のRちゃん、三つ編み隊長の娘さん、どうもありがとう。
翌朝、テーブルにそのままにしてあったワークの材料で、娘さんが「トマト」を作っていました。
それから「ぶどう」と「そらまめ」も追加して「羊毛フェルトのネックレス」になりました。
今日はここまで。
田中六大マンガ劇場第二回「村雨妖怪センター 輪入道編」
マンガ家、絵本作家として活躍する田中六大氏が毎回自由に描くwebマンガ連載。
マンガ家、絵本作家として活躍する田中六大氏が毎回テーマもページ数も自由に描くwebマンガ連載。
田中氏がどんな世界を見せてくれるのか? どうぞお楽しみに!
【田中六大】
1980年生まれ。多摩美術大学大学院修了。あとさき塾で絵本創作を学ぶ。
第7回アックスマンガ新人賞佳作。第50回ちばてつや賞佳作。第5回ますむらひろしコミック大賞受賞。
著書として
・漫画
クッキー缶の街めぐり(青林工藝舎)
・絵本の作・絵
でんせつのいきものをさがせ!(講談社)
・絵本の絵
だいくのたこ8さん(作・内田麟太郎/くもん出版)、しょうがっこうへいこう(作・斉藤洋/講談社)、ねこやのみいちゃん(作・竹下文子/アリス館)など
・児童書のさし絵
音楽室の日曜日(作・村上しいこ/講談社)ひらけ!なんきんまめ(作・竹下文子/小峰書店)願いのかなうまがり角(作・岡田淳/偕成社)など
http://www.rokudait.com/
おばあさん その2「ら抜き」/みぎわパン
みぎわパンのおばあさんシリーズその2 (※その1は『アックスvol.95』掲載)
ひとりの裸婦がいます。おばあさんです。
おばあさんがひとり、どうしてこんなところにいるのでしょう。バザーで売れ残って自由の身になったのでしょうか。このマンガは解らない場面の連続です、と行きたいところですが人の一生の一場面の解らなさにはかないません。
インターネットという情報の海をツイッターでブログで足跡で視線で人との縁でひとり言で一部泥水に変えてしまった負債をここでお返しできたら良いのですが、おばあさんの裸のにおいで余計に穢してしまうかもしれません。あらかじめ、ご免なさい。
この海で、おばあさんと読者諸氏と、どうやって遊ぼうか。始めて行きます。
【みぎわパン】
月刊漫画「ガロ」1985年6月号で「ぱんこちゃんになろうっ」で入選。2000年11月号まで同誌に執筆。他に雑誌イラスト、イラストマンガなど。
単行本は、1986年「ぱんこちゃんになろうっ」、1990年「ぱんこちゃん」(株式会社 青林堂)。 長谷川純子氏との共著「乙女の大ピンチ」1998年(株式会社 祥伝社)
「流れる雲のように」 第3話 末井昭
「流れる雲のように」 第3話 末井昭
3. 壊れた父親
父親が人を羨んだり、怠け癖がついたり、グチばかりこぼすようになったのは、三菱重工川崎自動車製作所の通称「地獄の3丁目」で働くようになったときからではなく、自分の妻が近所の若い男と不倫した末、その男とダイナマイト心中したときからです。そのとき、父親は壊れたのではないかと思います。
それまでは、誇れるものは何もないのにプライドだけは強く、そのため人とよく喧嘩をする父親でしたが、真面目によく働き、子供思いの父親でもありました。
僕が育った岡山県の山奥の村では、産業と言えるものが何もなかったのですが、唯一クレーの原料を掘り出す鉱山が近くにあり、父親はその鉱山で働いていました。坑道の奥でダイナマイトを爆発させて、爆破した鉱石をトロッコで外に運び出すのが主な仕事でした。
ダイナマイトというと危険なものだと思われますが、ダイナマイトと雷管が分離している分には爆発したりしません。切り羽に長いノミで穴を開け、そこに雷管を差したダイナマイトを詰め込み、導火線を引っ張ってタバコで火をつけます。導火線に火がついたら、ヨッコラショという感じで坑道の外に出るのです。ずいぶんのんびりしたもので、それでも事故はほとんどありませんでした。
ダイナマイトはダイナマイト小屋に保管されているのですが、父親はそこから1箱持って帰って家の床下に置いていました。その木箱を開け、油紙でくるまれたダイナマイトがギッシリ詰まっているのを見たとき、なんだか美味しそうに見えて、油紙を剥がしてちょっと舐めてみたら、かすかに甘い味がしたことを覚えています(子供の頃はお菓子なんかめったに食べられないので、歯磨きでも甘味源というチクロの錠剤でも、なんでも口に入れるクセがあったので)。
ダイナマイトは、畑の邪魔な岩を爆破したり、ときには喧嘩のときに使ったりしていましたが、父親と一緒にダイナマイトで魚を捕ったときのことが一番記憶に残っています。
川幅が広く(といっても5メーターぐらいですが)魚がいそうなところに、導火線に火をつけたダイナマイトを放り込み、父親と身をかがめていると、ドーンと爆発して水柱が立ちます。派手なわりには魚はほとんど捕れず、メダカが数匹浮く程度でしたが、ドーンと爆発音がして水柱が立つところは、のどかな田舎の風景を切り裂くようで、楽しかったのかもしれません。
魚を捕ると言えば、ゲランで魚を捕ったこともよく覚えています。父親がどこからかゲランを買ってきて、その黄色い根をトンカチで叩いて潰します。その樹液を川に流すと、魚がシビレて浮かんでくるのです。これはおおっぴらにやるとマズかったようで、村人が寝静まった頃に父親と2人で川に行きます。僕は、ゲランを流すところから数10メートル川下でカーバイドのランプと網を持って待ちます。しばらくすると父親もきて、腹を上にして浮かんだ魚が流れてくるのを2人ですくいます。とても食べきれない量の魚が捕れるので、串に差していろりの上にぶら下げておくと、川魚の燻製ができあがります。
そんなことをやっていたときは、父親のことが本当に頼もしく思えたものでした。
父親が町の映画館に掛け合って、わが家で映画を上映したこともありました。その頃はまだテレビもなく、娯楽といえば旅回りの一座が公民館で芝居をやるぐらいなもので、映画なんて観たことがない人がほとんどでした。
映画の当日はワクワクしました。町の映画館が出前で、確か16ミリだったと思うのですが映写機ごと持ってきて、わが家の部屋に設置し、スクリーンは土間にシーツを張りました。試しに映してみると、引きがないので画面が小さくて迫力がありません。このとき父親が「壁をぶち抜こう」と言い出しました。映写機を外に置いて映すと言うのです。これは母親の猛反対で中止になったのですが、そうでなくてもボロボロの家だったので、あのとき壁をぶち抜いていたら家が倒れていたかもしれません。そういう向こう見ずなところがある父親で、その性格を僕も受け継いでいるのではないかと思うことがあります。
わが家で上映した映画は中村錦之助主演の『笛吹童子』で、僕が映画を観たのはこのときが初めてでした。中村錦之助が女の子のように綺麗だったことを覚えています。画面は小さくても、集まった村人たちは満足して帰ったようでした。父親はそうやって人を楽しませることも好きでした。
母親は肺結核に罹っていて、弟が生まれて1年ほど経った頃、町の病院に入院しました。その頃は祖母も亡くなっていたので、3人だけで暮らしていたのですが、働きながら2人の子供の面倒をみるのは難しかったようで、僕と弟は別々の親戚にあずけられることになりました。
弟は兵庫県の母親の妹が嫁に行っている家にあずけられましたが、僕があずけられたのは家から近いところでした。その親戚の家からみんなより1年早く小学校に通っている頃(手間が省けると思って、親戚か父親が学校に頼み込んで入れてもらったのでした)、母親が退院してきました。
母親は、入院前とはずいぶん変わっていました。着るものや食べるものの贅沢をするようになって、わずかな田んぼも全部売ってしまいました。父親が働きに行っている間、村の男たちが家に出入りするようになり、そういうときは僕と弟は外に出されました。
夫婦喧嘩も頻繁にするようになり、あるとき父親が火鉢を投げつける大喧嘩したとき、母親は着の身着のままで家を飛び出し、そのまま帰ってきませんでした。
父親は親戚を廻ったり、町の警察に捜査願いを出したりして探していましたが、見つかりません。しばらくして、家の近くの山の中で、バラバラになった2人の死体が発見されました。山仕事をしていた人が、連れている犬が吠えるので行ってみると、腸が木の枝に引っ掛かったりしていたそうです。
相手はうちによくきていた隣の家の炭焼きをしている20過ぎの青年で、2人はダイナマイトで心中していました。母親が退院したのは肺結核が治る見込みがなかったからで、「どうせ死ぬのなら好きな男を道連れに」という気持ちがあったのかもしれません。
この心中事件は村中で大騒ぎになりました。隣の家とは仲良くしていて、僕もよく遊びに行っていたのですが、この事件以来お互い口もきかなくなりました。
父親は村の人と顔を合わせたくなかったのか、やる気がなくなったのか、鉱山を辞めて家に引きこもってしまいました。田んぼがなくなった上に、父親が働かないから現金収入もなくなり、食べるものにも困るようになりました。
父親はいつも家でゴロゴロしているので、働いてくれと頼むと「なんでワシだけ働かすんじゃ」と、弱々しい声で言います。「なんでワシだけ」と言われても、僕は小学生だし弟はまだ小学校にも上がってない子供です。
父親は長船のタンス屋に婿養子で入った弟のところに、よくお金を借りに行っていました。その弟が国道2号線沿いに食堂を出したので、そこのコックを任されたこともあるのですが、材料を使い過ぎるということでクビになりました。
あるとき、飼っていた猫がギャーギャー鳴くので出てみると、うちの猫の後ろ足を持って逆さにぶら下げたカヨちゃんが、ニヤニヤしながら立っていたのでゾッとしました。カヨちゃんというのは、同じ村に住む20代の白痴の女の人です。髪は伸ばしっぱなしで、汚い格好でよく歩いていましたが、みんなは見て見ないふりをしていました。
「ジュウちゃんおる?」とカヨちゃんは言います。父親は重吉という名前だったので、みんなからジュウちゃんと呼ばれていました。そのとき父親は出掛けていて、僕と弟しかいなかったので「おらん」と言うと、カヨちゃんは猫をぶら下げていた手を離してどこかに行ってしまいました。
それからしばらくして、父親とカヨちゃんのことが村で話題になりました。カヨちゃんは村の家々を一軒ずつ「ジュウちゃんとオメコした」と言って廻っていたのです。
おそらく、カヨちゃんは嬉しかったのではないかと思います。嬉しかったから報告して廻ったんだと思いますが、報告していいことか悪いことか、カヨちゃんにはわかっていなかったのでした。
オメコという言葉は、村の若い衆が子供をからかいながらよく言っていたので、父親が何をしたかは僕にもわかっていました。まったくもって恥ずかしいというか、父親のことを本当になさけなく思いました。父親もこの件があってからは、さらに村の人と顔を合わせずらくなったのではないかと思います。
★末井昭氏の新刊『自殺』(朝日出版社刊)と『素敵なダイナマイトスキャンダル』(復刊ドットコム刊)が全国書店で絶賛発売中です。この小説と連動している部分もありますので、合わせてお読みいただけると100倍面白く読めます。オススメです!