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「流れる雲のように」 第9話 末井昭

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高校卒業し出版界に入るまでの苦悩と葛藤を描いた連載小説! 挿画/東陽片岡

「流れる雲のように」 第9話 末井昭

9. 退社宣言

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イラスト: 東陽片岡

年末になると看板屋は忙しくなります。「Merry Christmas」だの「A Happy New Year」だの、「賀正」だの「新年おめでとうございます」だの、やたら看板の注文が多くなるからです。

看板だけではありません。東京タワーは地方から来る観光客が多いので、入口や展望台をクリスマスっぽくモールなどで飾ります。昼間は観光客がいるので作業する場所は限られ、展望台などは人がいなくなってから作業します。特別展望台で朝を迎えることもありました。

入社して1年4ヵ月が過ぎ、2度目の年末を迎えていました。近松さんが辞めたので、さすがにモダニズムデザインがどうの、情念がどうのとか言わなくなっていましたが、その代りに仕事がどんどん増えていきました。おびただしい看板のデザイン、東京タワーの飾り付け、そして後楽園遊園地に出来る蝋人形館のデザインや、ボーリング場の年末年始の飾り付けなど、任される仕事も多くなっていました。屁理屈を言わなくなったぶん会社や周りの人たちに受け入れられ、頼られるようになっていたのです。

革命的デザイン論は頭の中でくすぶり続けていましたが、そんなことを考える暇もないほど年末は仕事に追われていました。その反動もあったのか明けて1月の半ばになると、何もかもが虚しくなってきて、会社を休むようになりました。

この1970年の1月は、僕にとって何度目かの大きな転機だったような気がします。会社に認められ信頼されるようになっていたので、そのまま真面目に働いていればなんらかの役職を与えられ、一生その会社にいたかもしれません。しかし、自分の中の何かが、会社に行くことを拒否するのです。

頭にこびりついているのは、近松さんの「黒い太陽」です。仕事が虚しくなっていくぶん、そういう情念のデザインがしたいという思いが強くなってくるのです。つまり、押さえ込んでいた表現欲がむくむくと膨らんでくるのでした。

そういうデザインは作画会では無理だ、近松さんのようにキャバレーに行こうと思い、新聞の求人欄を見て、キャバレーの募集広告を探しました。そして見付けたのが、「東京の夜を演出するクインビー・チェーン」というキャバレーチェーンの宣伝課でした。

さっそく面接に行きました。上野駅から線路沿いに御徒町方向に少し行ったところに、その宣伝課があるビルはありました。5階建てで、2階が喫茶店、3階と4階が上野クインビー、5階が宣伝課です。1階には受付があり、ホステスやボーイも同時に募集していました。受付に座っていたのは黒服の若い男で、僕の偏見かもしれませんが、なんとなく夜の雰囲気が漂っていて少しワクワクしました。自分もこれから夜の世界に入っていくのです。

5階に行き、宣伝課の課長という人から面接を受けました。クインビー・チェーンは、東京に10店舗ほどのキャバレーやクラブを経営していて、宣伝課はそれらの店で使うチラシや看板やポスターの制作、それに各店の催し物の企画や装飾などを一手に引き受けているところでした。総勢20人ほどの人が忙しそうに働いているのですが、その光景を見て「あれ? これじゃあ普通の会社じゃないか」と、少しガッカリしました。 というのは、僕は、近松さんが言っていた、床の穴から下を覗くと男たちがホステスのパンツに手を入れているところが見えるというような職場を想像していたからです。ここも確かに下の階はキャバレーですが、床の穴といってもリノリュームです。リノリュームの下はおそらくコンクリートで、穴なんか開いているはずがありません。といっても、僕はその穴からホステスのパンツを見たかったわけではなく、そういう人間の欲望が渦巻く現場で、1人で悶々としながら情念的デザインをしている近松さんのような存在になりたかったのです。前に見せてもらった「黒い太陽」の浴場ポスターは、警察の目に止まって剥がされたことを聞きました。近松さんの情念が警察と真っ向から対立しているのです。そういうところでこそ真の反体制デザインが出来るのだと思っていました。面接は、これまでやってきた仕事の内容を話したら合格でした。そこの仕事が、作画会の延長線のようなものだったからだと思います。そして、2月の初めからそのクインビー・チェーン宣伝課で、グラフィックデザイナーとして働くことが決まりました。

職場は普通の会社みたいだけど、仕事はキャバレーのチラシやポスターです。「よ~し、情念を込めてデザインするぞ」と意気込んでいました。しかしその前に、それまで休んでばかりで行きづらくなっていた作画会に、退職の話をしに行かなければなりません。辞表というものを知らなかったので、退職の理由を書いていたら意気込んでいた影響で、なんだか宣言文のようになってしまいましました。

退社宣言

昭和43年8月5日に入社した株式会社作画会を退社致すことになりました。以下、その理由を述べます。

現在、デザイン行き詰まっています。それは、基本理念などなく、単に美化運動でしかないモダニズムデザインの行きづまりです。私はモダニズムデザインを深く学んだわけではありませんが、なぜかアンチ・モダニズムデザインに強く惹かれます。作画会において、アンチ・モダニズムデザイン風なことを試みたことがありますが、気持ち悪いとか暗いなどと言われ、まったく問題にされませんでした。

以前はデザインとヒューマニズムということを考えていました。しかし、そんなことをデザインで出来るとは思えなくなりました。それからは、木村恒久氏が言うように、デザインは享楽だと思うようにしました。この前の後楽園遊園地の蝋人形館では、ケバケバしい色彩を使ってデザインしました。自分ではある程度納得したつもりでいましたが、まだまだもの足りません。もっともっと人を驚かすようなデザインをしなければなりません。 昨年の12月は忙しかったのですが、忙しくなるに連れデザインの仕事がイヤになってきました。それで、もっとデザインのことを考えてみようと思ったのです。しかし何を考えたらいいのかまったくわからなくなり、正月はごろごろ寝て過ごしました。4日間何もぜずにいたら、もの凄く憂鬱になりました。その憂鬱を乗り切るためには何でもいいから考える事だと思い、初出勤の日からそうすることにしました。

いつも精神を緊張させておかないといけないと思いました。そして死が登場したのです。自分は明日死ぬかもしれないという意識を持つようにしないといけないと思い、毎日そうすることにしました。そういう意識をみんなに伝えるために、刃物を突き付け「殺すぞ」と言ってやる、その刃物こそがデザインだと思うようになりました。死を登場させると、その反対の生の意味もわかり始めました。粟津潔や横尾忠則の考えていることが少しわかり始めました。それから横尾忠則の本などを本屋で万引きするようになりました。

刃物的デザインの刃物的なるものは何なのか、それは美化運動的なるモダニズムデザインが捨ててきた、あるいは隠してきたものではないか、セックスしかり、醜悪なものしかり。そう考えると、近松さんを羨ましく思うようになりました。作画会を辞めた近松さんは、警察と張り合って仕事をしています。そこに反体制的デザインがあるのではないか、そういう世界に自分も飛び込んでみようと思いました。もう後楽園の仕事など問題ではなくなりました。キャバレーの仕事を一生懸命探しました。

昭和45年1月25日
末井 昭

頭がおかしい人が書いたようなこの「退社宣言」を社長に渡しました。いきなり「退社致すことになりました」です。なんだか退社することが偉そうです。デザインはヒューマニズムであったりアンチ・モダニズムであったり享楽であったり、いったいなんなんだというような文章ですが、社長はこの文章を読んで笑いながら「わかりました」と言ってくれました。「頑張んなさい」とも言ってくれました。優しい人です。優しい人ですけど、退職金はくれませんでした。まぁ1年半しか勤めていなかったのですから出ないのが当たり前ですが。


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