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「流れる雲のように」 第7話 末井昭

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高校卒業し出版界に入るまでの苦悩と葛藤を描いた連載小説! 挿画/東陽片岡

「流れる雲のように」 第7話 末井昭

7. ストーカーと学校封鎖

春がきて、青山デザイン専門学校・商業デザイン科の夜間部に入学しました。

この頃、雨後のタケノコのように出来ていたデザイン学校の中からこの学校を選んだ理由は、青山と名がついているところがなんとなく都会的だったのと、小さな学校なのでわりと親切に教えてくれるんじゃないかと思ったからでした。

青山といっても校舎は渋谷の松濤町にありました。美濃部東京都知事の邸宅もある高級住宅街で、校舎も一軒家を改装したようなところでした。

平間から渋谷に行くには、南武線で武蔵小杉まで行き、渋谷と横浜を結んでいる東横線に乗り換えます。

南武線は川崎と立川を結んでいる主に工場労働者を運ぶ電車で、山手線などで使い古された車両が走っていたり、車内吊り広告がまばらだったり、駅や乗客の感じからも、どこかローカルな雰囲気が残っていました。沿線には競馬場や競輪場や競艇場があり、ガラの悪いオッサン連中も乗ってきます。

そういうオッサンが1人で座席を2人分ぐらい占領し、煙草を吸いだします。もちろん車内は禁煙ですが、みんな見て見ないふりをして、そのオッサンから少し遠ざかります(僕もそうしていました)。たまたま車内を回ってきた車掌が「お客さん、車内は禁煙ですよ」と言うと、オッサンはジロリと車掌を睨みつけ「おめぇなぁ、オマンコやってるとき途中でやめられねぇだろ」と言うので、僕は頭の中でズッコケました。苦笑いしている人もいます。聞こえなかったふりをして、あさっての方向に目をやる女の人もいます。車掌は「こんなやつ相手にできない!」と思ったのか、「煙草はやめてくださいよ」とひとこと言って通り過ぎて行きました。南武線はこんな感じの電車でした(どんな感じだ!)。

それに比べて、東横線は品がありました。南武線より美人度が高く、乗客はみんな上品な人ばかりに見えました。止まる駅も、田園調布だったり、自由が丘だったり、代官山だったり、金持ちが住んでいそうなところばかりです。南武線から東横線に乗り換えた瞬間、なんだかちょっと自分が偉くなったような気持ちになりました。

青山デザイン専門学校のパンフレットを見ると、校長はアニメーション作家の久里洋二氏で、他にも有名な講師が数名並んでいましたが、実際に教えてくれる先生は、町のデザイン事務所で版下を引いてるような地味な人でした。ポスターカラーをベタでムラなく塗る練習をしたり、ミゾビキの練習をしたり、なんだか僕が想像していたデザイン学校とちょっと様子が違っていました。いや、ベタ塗りもミゾビキも大事だとは思いますが、何か、その、もっとカッコいいことを勉強するところのように思っていたのでした。ひょっとして昼間はカッコいいことを教えていて、夜になると看板屋みたいになるんじゃないかと勝手に想像して、昼間の学生を嫉妬するようにもなりました。

デザイン学校に通いだした頃から、工場をサボるようになりました。M子さんは真面目に通っていたのですが、下宿を一緒に出て、M子さんにくっついて東芝の工場近くまで行って、無理矢理連れ込み旅館に連れ込んだりしていたので、M子さんもサボりが多くなりました。2人で会社をサボって多摩川を散歩したりするときは楽しくて、工場をサボっている不安感もなくなりました。

さすがに1週間続けて無断欠勤したときは、現場の班長が下宿まで様子を見に来ました。班長に来られると申し訳ないと思い、しばらく工場に行くのですが、またちょこちょこ休むようになります。まぁ、面白くないんですね、工場が。それに、自分はグラフィックデザイナーになると思っていたので、工場をバカにするようになっていたかもしれません。

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イラスト: 東陽片岡

M子さんとは同じ屋根の下で暮らしてはいますが、その家の主のお婆さんも住んでいます。M子さんの部屋にお邪魔するときも、お婆さんが気になります。なにしろ襖の向こうにいるわけですから。

たまにお婆さんが子供の家に泊まりに行くことがあって、そういうときは自分たちの家のように、勝手に風呂を湧かして2人で入ったりしていました。どこかアパートを借りて2人で一緒に住みたいのですが、なにぶん貯金がまったくなかったのでそれもできません。

アパートを借りることはささやかな夢だったのですが、それが必要に迫られてきたのは、お兄さんがまた来るようになったからです。多摩川対決のあと来なくなったので、てっきりM子さんのことを諦めたものだと思っていました。しかし、考えてみれば、M子さんがどっちを選ぶかは、あのとき据え置きになったままではありました。その決着をつけようと思って来ているのかどうかわかりませんが、未練が断ち切れていないのは事実です。

M子さんはもうお兄さんに会いたくないと言うのですが、僕が学校に行っているときに来るので、ついつい会ってしまうのです。そのたびにM子さんは「もう来ないで」と言っていたので、さすがに諦めたのか来なくなったのですが、しばらくして、また来るようになりました。しかも、真夜中に。

夜中にM子さんの部屋にお邪魔していると、自転車の音がします。M子さんは表情が変わり、すぐ電灯とテレビを消しました。真っ暗な中、息をひそめていると、庭に誰かいる気配がします。カーテンの隙間からそっと覗くと、暗闇の中に煙草の火だけが見えます。しばらく目をこらしていると、お兄さんが立ってじっとこっちを見ている姿が浮かび上がり、背筋がゾクッとしました。僕たちを監視しているのか、嫌がらせをしているのか、諦めきれずにどうしても来てしまうのか、お兄さんの気持ちはわかりませんが、呪いをかけられているようで怖くなりました。

アパートを借りる理由は他にもありました。父親のことです。

僕の両親が近くのボロアパートに住んでいるということは、恥ずかしくてM子さんに言えないままになっていました。ところが、父親が突然下宿に訪ねて来たので、両親が近くにいることがバレてしまったのです。それからときどき父親が来るようになり、M子さんのことを紹介もしました。

あるとき、M子さんが「お父さん、気持ち悪いよ」と言います。訳を聞いてみると、僕がいないときに来たので、悪いと思ってM子さんが自分の部屋に入れると、いきなり「M子ぉ~」とうわずった声を出しながら、抱きついてきたと言うのです。「怖かったよ。言いつけてやるって言うとやめたけど」とM子さんは言います。まったく見境がないというか。また来るかもしれないので、これも要注意人物です。

そんなこんなで、2人でアパートを借りることを決め、その資金はM子さんの貯金から出してもらうことになりました。

学校に通いだして2ヵ月ほど経った頃、学校が松濤町から同じ渋谷の桜丘のビルに移転しました。それと同時に、昼間の学生たちが学校側と闘争しだして、バリケードを築いて学校封鎖してしまいました。ビルの壁面にラーメン屋のドンブリのような龍の絵を描いたり、窓からは垂れ幕がぶら下がったり、瞬く間に校舎は異様なものになっていました。

この頃、学生運動がどんどん過激になっていました。この年(1968年)、5月には日大全共闘が結成され、6月には東大安田講堂を学生たちが占拠しています。

僕は学生運動にシンパシーを持っていましたが、それがデザイン専門学校まで及んでくるとは思ってもみませんでした。そして、こんな小さな専門学校を封鎖してなんになるんだろう、それはハヤリものを真似するような、ただの学校封鎖ゴッコじゃないかと思ったりしました。そういう偏見の根底には、自分が牛乳配達までして稼いだ金を取られた恨みや、昼間の学生に対する嫉妬があったと思います。(のちに、この青デ闘争には、平岡正明さんや竹中労さん、上野昂志さんなどが関わっていたことを知りました)

中に入れないし授業もやっていない学校に、それでも3日間通いましたが、3日目で諦めました。学校を背にして駅に向かってとぼとぼ歩いていたら、自分1人が、学校からも学生からも排除されたような気持ちになりました。

学校はやめてしまったし、工場もサボってばかりいるし、お金もないし、ということでデザイナーとして働けるところを新聞の求人欄で探しました。そして見つけたのが、駒込にあった作画会というディスプレーの会社でした。面接に行くと採用が決まり、そこで働くことが決まりました。

アパートは、東横線に憧れがあったので、祐天寺に借りました。6畳1間にキッチン、トイレつきの狭いアパートでしたが、やっと自分たちの部屋が持てたので、嬉しくて仕方がありませんでした。

そして、季節は夏になっていました。


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