「流れる雲のように」 第4話 末井昭
4. ガンビの母
僕が小学校5年生の頃、父親が女の人を連れてきました。年は40ぐらいの無口な人でした。どこで知り合ったのか、どういう人なのか、何も知らされないまま、その人は家に住むようになりました。父親は白痴の女の人とオメコするぐらいですから、そっちの方面でも切羽詰まった状態だったのかもしれません。
その人は文字を読むことも書くこともできない人でした。兵庫県の田舎の出身だということはわかったのですが、どういう生活をしてきたのか聞いたことがありません。子供だったから、そういうことに関心がなかったのかもしれませんが、何か聞いてはいけないことのように思っていました。のちに、その人に子供がいたということを知ったのですが、その子供がどこにいるのか、生きているのかどうかも、その人は話しませんでした。とにかく、自分の過去の話は一切しない人でした。
その人が二度目の母親になるわけですが、なかなか「お母ちゃん」と呼べなくて、ずっと「オバサン」と呼んでいました。
名前は「おしゅん」といいました。まるで江戸時代のような名前です。その古くさい名前も、文盲であることも、無口で社交性がなく殻に閉じこもっているような性格も嫌で、その人が自分の母親になることを認めたくなかったのかもしれません。
僕が「オバサン」と呼んでも、その人は嫌な顔もせず笑っていました。自閉症のような人でしたが、性格は明るいとまではいかなくても、暗い陰鬱な人ではありませんでした。何か自分の身の回りで起こることはすべて受け入れる、というような感じの人でした。
父親は再婚してからまた鉱山で働くようになったのですが、相変わらず家は貧乏だったので、オバサンも働くようになりました。
といっても、岡山の山奥に働き口があるわけはありません。誰にでもできる唯一の現金収入は、山でガンビを採ることです。漢字で書くと雁皮で、正確にはガンピというのだそうです。Wikipediaによると『奈良時代から製紙原料として用いられている。高さは1~3m、枝は褐色、葉は卵形で互生し、初夏に枝端に黄色の小花を頭状に密生する。繊維は楮(こうぞ)の3分の1程度と短く、その質は優美で光沢があり、平滑にして半透明でしかも粘性があり緊縮した紙質となる。』とあります。村の人は、ガンビはお札の原料になっていると言っていましたが、おそらく高級和紙か何かの原料になっていたのだと思います。
そのガンビを採ってきて、皮を剥いて天日で干します。月に1回ぐらいそれを買いに来る人がいて、ガンビ採りは村の人たちの小遣い稼ぎになっていました。
オバサンは毎日山に行くようになりました。村の人は、小遣い稼ぎにガンビを採るものの、それを仕事にしている人はいません。そのうち「おまえんとこのオカァがガンビばっか採るから、山にのうなってしもうた」と、村の人から嫌味を言われるようになりました。
ガンビは通常鎌で切り取るのですが、オバサンは小さなガンビは全部引っこ抜いていました。根の部分も売れるからです。しかし、引っこ抜くとガンビは生えなくなります。村の人が嫌味を言うのは、そのこともありました。
オバサンが、ボロボロの服で、採ったガンビを背負い、しかも歯でガンビを剥きながら歩く姿はかなり異様でした。それを人に見られるのが恥ずかしくて、できれば学校の前だけは通って欲しくないと思っていました。しかし、オバサンのガンビ採りの範囲はものすごく広くて、ときには学校の前をその異様なものが通ることもありました。「おい、昭ちゃんのお母さんがとうりょうるで」と同級生に言われるたびに、僕は真っ赤になっていました。
オバサンは、人からどう見られようが、どう言われようが、雨の日以外はいつも山に行っていました。いま思えば、山にいるときが一番平安だったのかもしれません。
一度オバサンは山火事を起こしたことがあります。オバサンは煙草をよく吸う人で、それが原因で山火事になり、村の消防団が出動して山火事は消し止めたのですが、オバサンは村の人から白い目で見られるようになり、ちょっとかわいそうになりました。
中学校に入った頃センズリを覚え、だいたい毎日寝る前にしていました。隣に弟が寝ているので、いつも出しっ放しです。その精液のついたパンツをオバサンはいつも洗ってくれて、「昭ちゃんは子種が多いから」とよく言っていました。その頃には、オバサンのことを「お母ちゃん」と呼べるようになっていました。
僕が高校に入った頃、父親は川崎に出稼ぎに行ったので、お母ちゃんと僕と弟の3人暮らしになりました。相変わらずお母ちゃんは山にガンビ採りに行き、僕はオートバイで高校に通い、弟は自転車で中学に通っていました。
僕が高校を卒業すると同時に、弟は中学を卒業して大阪に働きに出ました。弟が先に家を出て、何日かして僕も大阪の工場に行くことになったのですが、家に1人残るお母ちゃんがかわいそうで、家を出るときは涙が流れました。4キロの道のりをバス停まで歩いて行くのですが、振り返ると、お母ちゃんは歩いて行く僕を、ボロ家の前でいつまでも見ていました。
父親が住んでいる平間のアパートに同居するようになって半年ほど経った頃、お母ちゃんも平間に来ることになりました。寂しいから父親が呼び寄せることにしたのです。
父親が田舎に帰ったとき、家も土地も、わずかな畑も、それにオートバイまでつけて、3万円で村一番の金持ちに売ったと言います。いまの貨幣価値に換算すると30万円ぐらいだと思いますが、それにしても安いとそのとき思いました。しかし、いま考えてみれば、当時の山奥の土地に値段があったのかどうか疑問です。3万円でも破格の値段だったのかもしれません。
平間のアパートは6畳1間で、父親と2人でも窮屈なのに、そこにお母ちゃんまで住むことになり、僕は本気でアパートを出ることを考えるようになりました。