「流れる雲のように」 第18話 末井昭
18. 描くテロリズム
清風書房でイラストの仕事を始めてから、憂うつな日々が訪れるようになりました。
描きたいもののイメージはあるのですが、具体的に何を描くかが決まりません。いつものようにノートを持って喫茶店に行き、考えていることをメモします。しばらくご無沙汰していた「情念」だ「死」だ「闇」だといった言葉が、再び頭の中で飛び交うようになりました。
俺が「死のイメージ」と言うと、人は多少の軽蔑を込めて「好きだねぇ」と言う。そこで会話は止まってしまう。俺が生まれた山奥の村。死霊が村を覆っているときがある。人が死ぬ。雨が降る。そしてまた誰かが死ぬ。「あの人に呼ばれたんだなあ」と誰かがいう。死のイメージなんか誰も好みはしない。が、しかし、死のイメージは厳然としてある。
死のイメージもそうだが、不吉なもの、醜悪なもの、おどろおどろしいものなど、誰も見たくはないだろう。しかし、いま東京で生活していて、人間の醜悪さに蓋をして、表面的な人間付き合いをしている自分に不安がある。それは自分をどんどん孤独にしてゆく。
毎日意味のない会話に明け暮れ、どうしようもない虚無感の中で生活している。これは絶望ではないだろうか。絶望を感じた者にとって生きる為の手段は、その日常を打ち壊していくこと、己の内に闇を抱えその中に潜むこと。俺は闇の中に潜むのだ。
いま読むと、わかったような、わからないような文章ですが、内向的で、コンプレックスが強く、人とうまくコミュニケーションが取れない自分の居場所を、「闇」と呼んでいたのではないかと思います。
その「闇」をひっくり返して「宮」にして、宮五郎と名乗ることにしました。五郎は、藤田五郎原作の映画「無頼 人斬り五郎」から取りました。闇の中に潜み、イラストレーションという表現で人斬り五郎のように見る者を斬る、といったイメージがあったのだと思います。
(これは余談ですが、宮五郎という名前にしてから1年ぐらい経ったころ、ぴんからトリオが「女のみち」という歌でデビューし、一躍有名になりました。そのメンバーの中に、うしろで突っ立ってギターを弾くマネをしている人がいるのですが、その人の名前が宮五郎といいました。ボケーッとした顔で、ギターのネックの同じところを押さえている姿をテレビで見るのが恥ずかしくて、宮五郎という名前はそれから使わなくなりました)
描くものはみんな暗くてドロドロしたものばかりでした。そのころ読んでいた夢野久作の小説「ドグラ・マグラ」の最初に出てくる、「胎児よ 胎児よ 何故踊る 母親の心がわかって おそろしいのか」という詩のような文章にドキッとして、その文章を元にイラストを描いたりしていました。
こんな日記もあります。
いま描きたい絵は、ダイナマイトを腰に巻き付けたロングコートの男、相手が来るのをじっと待つ日本刀を背にした男、スパッと斬った田中角栄の首が空を飛ぶところ、そんなテロルのイメージがある絵だ。凝縮した情念、恐ろしいまでの孤独、そういうものがテロリストと重なるからだ。
絵が完成するまでは闘いだ。白い紙との闘い。白い紙に己の怨念を染み込ませる闘いだ。白い紙はいつでも白け切って己の前にある。それを闇で塗り潰すことが絵を描くことだ。出来上がった絵は己の分身だ。その分身と誰かの対話が始まる。それもまったく通じ合わない対話が。
そのころ学生運動は武装闘争が過激になっていたので、その影響もあって、絵を描くことが、自分にとってのテロリズムのように思っていたのかもしれません。
「通じ合わない対話」とは、自分が描いたイラストがまったく評価されないということです。評価されないことが最初からわかっているのです。それは、自分で評価していないということでもあるのです。そういう出口の見えないモヤモヤで、いつも憂うつな気持ちになっていたのでした。
イラストの仕事だけでは生活できないので、クラウンの看板描きも続けていました。忙しいときには、あの「黒い太陽」の近松さんに手伝ってもらっていました。
クリスマスが近付くと、看板の注文が多くなります。クリスマス前後はピンクサロンの書き入れどきです。値段も通常時の1.5倍から2倍になります。看板も、メニューも書き換えなければなりません。
クリスマスイブの12月24日も、クラウンの地下室で看板を描いていました。店は満員の様子で、上からバカ騒ぎの声が聞こえてきます。かじかんだ手に息を吹きかけながら看板を描いていると、何もかもぶっ壊れてしまえ! といった気分になってきます。
その日の午後7時15分に、新宿伊勢丹横の追分交番でクリスマスツリーに模した時限爆弾が爆発しました。クリスマスというキリスト教の行事を、商業主義が消費のためのお祭りに仕立て上げ、バカどもは浮かれ騒いでいる。クリスマスなんてぶっ壊れてしまえ! と思っていた僕には、この爆弾事件には感慨深いものがありました。そしてこの爆弾を仕掛けたであろうテロリストに、強いシンパシーを感じたのでした。
堂々巡りばかり続く自己表現の束縛から解放されるきっかけは、東京三世社の仕事をするようになったことです。清風書房を紹介してくれたカメラマンの山崎さんと同じパターンで、クインビーの宣伝課にいた阿部くんというカメラマンが、東京三世社というエロ雑誌を出している出版社にヌードカメラマンとして入り、仕事を紹介してくれたのでした。
東京三世社は老舗の出版社で、『実話雑誌』『SMセレクト』『MEN』『PINKY』といったエロ雑誌を出していました。同じエロ雑誌でも、清風書房のものに比べてクオリティーが高いと思いました。
編集部はクインビー宣伝課のあるビルから御徒町に少し行ったところにある、古いビルの1階にありました。
編集者が出てくるのはたいがい夕方からで、午後7時ごろから12時ごろまでがみんながいる時間帯です。校了のときなんかは朝までいる人もいて、完全に昼夜逆転していました。
僕が頼まれた仕事は、捨てカットや書き文字です。仕事を貰ってきて家でするのではなく、現場に行くのです。電話が来るのはたいてい入校日の前日で、ペンや筆や定規や墨汁やケント紙などを持って編集部に行き、空いている机を借りて待機します。
隣ではベレー帽を被った人が、原稿用紙に向って『実話雑誌』の原稿を書いています。明日入校だというのに、まだ原稿を書いている状態です。
「実話」というのは、ノンフィクションということだと思っていました。下着泥棒を捕まえてみたら元警察署長だったとか、主婦が産婦人科の先生に診てもらいに行ったら犯されてしまったとか、そういう事実を取材したり、当事者から聞いたりして書いているものが実話だと思っていたのですが、実際は隣にいるベレー帽の人のような実話作家たちが、さもあったかのようにサラサラ書いているのです。職人の仕事のようです。その原稿を編集者が割付して、空いたスペースに入れるカットを僕が描くのです。
「宮さん、それが終わったらこれをお願いします」と、次から次に仕事を頼まれます。まるで突貫工事のように、みんな忙しそうに仕事をしています。次の日に入校しないといけないので、みんなテンションが高くなっていて活気があります。「飯でも食べに行こうか」と言って、連れ立って外に出ていく人がいたり、仕事が終わったのか、「よ~し、トルコ(ソープランド)に行くぞ」と言っている人もいます。そういう声を聞きながら、僕は黙々と仕事をしていました。
もう表現がどうのとか、死のイメージがどうしたとか言ってる場合じゃありません。とにかく早く描かないといけないのです。それに捨てカットやレタリングに表現もクソもありません。
朝の3時か4時に終わって、タクシー代を貰って帰るのですが、タクシーに乗るのはもったいないので、上野まで行って日比谷線の始発電車を待って帰っていました。眠りこけてしまい、中目黒の車庫に入った電車に一人取り残されていたこともあります。
東京三世社の仕事をするようになって、自己表現にはこだわらなくなりました。編集者が求めているものを早く仕上げる、そのことだけを心がけるようになりました。