「流れる雲のように」 第17話 末井昭
17. 店長の失踪と雑誌デビュー
クラウンの看板を書きだして2ヵ月ほど経ったころのことです。 いつものように地下室で看板を描いていたら、めったに姿を見せない岡山出身の社長が来て、「末井さん、あんた、店長どこへ行ったんか知らんか?」と言います。なんでも、長田店長はホステスさんを5人引き連れていなくなったそうです。何があったんでしょうか。
ホステスさん5人といえば、全ホステスの3分の1です。長田店長がいなくなってから、小柄だけど喧嘩っ早いマネージャーが店を切り盛りしていましたが、ホステスさんが減れば、お客さんも当然減ります。長田店長は、この店のホステスの半分は自分が連れてきたと言っていたので、真面目ではなかったけど、いなくては困る人だったようです。
ある日、地下室で看板を描いていたら、長田店長がひょっこり現れました。「あれ? 戻ってきたのかな?」と思っていたら、きょろきょろ周りを気にしながら手招きします。
喫茶店に行って話を聞くと、クラウンの真ん前でキューピットというピンクサロンを開店するから、看板を描いて欲しいと言います。クラウンからいなくなったホステスさんも、そこで働くそうです。ずいぶん大胆なことをするものです。
それまでにも、クラウンの地下室を使ってときどき他店の看板を描いていましたが、それは長田店長がいたからで、しかもその看板は長田店長が注文を取ってきてくれたものです。長田店長が疾走してからは気が引けるので、他店の看板は描かなかったのですが、今度はクラウンの真ん前の、ホステスを引き抜いた長田店長がやる店の看板です。その看板を地下室で描くことはさすがにできないので、長田店長の店を昼間開けてもらって描くことにしました。
その店は地下にあって、思っていたより狭い店でした。照明も暗くて看板が描きづらいのですがやむを得ません。テーブルや椅子を片づけてスペースを作り、看板や入口の壁に飾るパネルなどを作りました。
そして、いよいよキューピットのオープンです。夕方になると、クラウンとキューピットの男子従業員がハッピを着てハチマキをし、ロマンス通りで客を奪い合います。局地的ピンクサロン戦争勃発です。僕はその両方に看板を売る死の商人です。
当然といえば当然ですが、長田店長がキューピットをやっていることはすぐに知れ渡り、僕がその店の看板を描いていることも知られてしまい、なんだか気まずい雰囲気になってしまいました。社長は「前の店のよーなきれーな看板を、ウチでも描いてもらえんかのー」と、僕に嫌味を言うようになりました。
しかし、このピンクサロン戦争はすぐ決着がつきました。キューピットがあっけなく負けて、長田店長はまたクラウンに戻ってきました。店を裏切って出ていって、何食わぬ顔で戻ってくるというのも、ずいぶんイージーな話です。それを受け入れる社長は、本当に人がいいのか、それともどうでもいいのかよくわかりませんが、出ていったホステスさんが戻ってくるという打算はあったのかもしれません。
帰ってきた店長は、すさんだ感じになっていました。僕に「だ、だ、だいぶ儲かってんだろ。す、少し、ま、ま、回してよ」と言うようになりました。つまり看板代のリペートをよこせということです。
長田店長のおかげで生活できるようになったわけですから、多少のリペートは当然といえば当然なのですが、「儲かってんだろ」「少しこっちに回してよ」と露骨に言われると、なんかいや~な気持ちになります。この仕事、あまり長くやらないほうがいいような気がしました。
そう思いだしたころ、クインビー時代の同僚でストリーキングの写真を撮ってくれたカメラマンの山崎さんから電話がありました。クインビーを辞めて清風書房という出版社に入ったと言います。それで、新しく創刊する雑誌があるので、イラストレーションを描いてみないかと言うのです。
雑誌でイラストレーションが描けるなんて、思ってもみなかったことです。グラフィックデザインやイラストレーションで自己表現したいということは、看板屋になってからあまり考えなくなっていましたが、まだ自分の中でくすぶってはいました。山崎さんの電話でそれに火がつき、興奮して眠れませんでした。
次の日、打ち合わせで外苑前にある清風書房に行きました。住宅街にあるボロい洋館の一軒家で、1階の壁をぶち抜いた部屋で、5、6人の編集者が仕事をしていました。山崎さんはカメラマンとして入社したらしく、僕を新雑誌の編集長の尾上さんという人に紹介してくれました。
清風書房は、性風俗研究家の高橋鐵が監修している『愛苑』という雑誌や『りびどう』という性科学雑誌を出していたのですが、若者向けのエロ雑誌に方向転換しようとしているときでした。
僕がイラストレーションを描かせてもらう新雑誌は、『ヤングV』という『PocketパンチOh!』と同じサイズのエロ雑誌だそうで、その創刊号の表紙のデザインとイラストレーション3ページを描いてくれと言います。
クラウンに行くのはしばらくやめて、アパートで『ヤングV』の仕事を始めました。まず表紙のデザインです。表紙に使う女の子の写真を借りていたので、それを切り抜きにして、背景は真っ赤な海と空にしました。色指定なので印刷してみないとわからないのですが、ポップでちょっとサイケな感じになるのではないかと思いました。
3ページのイラストレーションは難航しました。エロ雑誌ですから、本当は読者が欲情するような絵を描かないといけないのではないかと思いましたが、そういう絵は技量不足で描けなかったし、描きたいとも思いませんでした。やはりここは、自分の内面を表現するようなものでないといけない、それは死のイメージだということで、首のない男女の裸体や、首吊りしている裸の女や、男女の首が空を飛んでいる絵を描きました。それを尾上さんに持っていくと、「いいんじゃないの」と言ってくれました。
山崎さんは、僕がストリーキングをしたときの写真を使いたいと言ってくれました。その写真に尾上さんが文章をつけてくれるそうです。僕がデビューする雑誌に花を添えてくれるような気がして、ますます出来上がりが待ち遠しくなりました。
『ヤングV』が発売された日は、嬉しくて何軒かの書店を回りました。しかしエロ雑誌なので置いているところがなくて、やっと平積みになっている書店を見つけたときは、お客さんが手に取るのをじっと見ていました。
清風書房は、『ヤングV』の他にも『ジッパー』とか『ワールドプレイボーイ』とかのエログラフ誌を出すようになったので、頼まれる仕事もだんだん多くなりました。
だいたいいつも、尾上さんから「イラスト4ページ頼むね」とか言われるだけで、「どういうのを描いたらいいですか?」と聞くと「自由でいいよ」としか言いませんでした。自由は素晴らしいものですが、自由は恐ろしいものでもあるのです。
自由に描いてもいいと言われると、何か自己表現しないといけないと思い、何日も考え込んでしまうのです。そのぶん看板の仕事ができなくなり、収入も減ってしまいます。
何も思いつかないときは、表現したいことが自分の中にあったはずなのに、表現したいという欲望だけがあったのではないか、自分の中に表現するものなど何もないのではないか、などと考えるようになり、気持ちがどんどん落ち込んでしまいます。そうやって考え込んで描いたイラストレーションは、海をバックに自分がもがくようにオナニーしているといった、いま思い出すととても恥ずかしいようなものばかりでした。
それを尾上さんに持っていくと、「いいんじゃない」のひと言しか返ってきません。「いい」じゃなくて「いいんじゃないの?」です。いいと思っているわけではないのです。
結局、自分の描いたものに自信がなかったのだと思います。自信があれば、どう言われてもそんなに気にならないのですが、自信がないから「いいんじゃないの」という言葉に自分は必要とされてないのではないかと思ってしまうのです。
でもまあ、尾上さんはどんなイラストレーションであろうと、「いいんじゃないの」ぐらいにしか思っていなかったのかもしれません。
そのころのエログラフ誌には、ヌード写真の間にいろんな人のイラストレーションが入っていました。エロ雑誌だったらヌード写真だけ載せておけばいいのですが、それだと雑誌の体裁がとれないから、ところどころイラストレーションを挟んでいたのかもしれません。
だから「なんでもいい」というのはいい加減だからではなく、本当になんでもよかったのだと思います。そして、その「なんでもいい」によって、発表の場を与えられたイラストレーターがたくさんいたのではないでしょうか。