「流れる雲のように」 第2話 末井昭
年をとってくると、記憶の遠近法が狂ってきますね。昨日のことがまったく思い出せないのに、30年ぐらい前のことを鮮明に思い出したりします。 これから書いていくのは、僕の20歳前後の話です。タイトルは雲を見ているのが好きだからつけましたが、怒髪天の「流れる雲のように」も好きです。「どんなにあせっても いずれは土の中」ですよね。
いまから45年もむかしのことなのに意外とよく覚えているのは、脳細胞がまだ若かったからでしょうか。あるいは、そのころはめまぐるしく仕事や環境が変わったので、見るもの聞くものが新鮮だったからかもしれません。
月末締め切りのこの原稿でしたが、半月ほど遅れてしまいました。すみません。ちょっと忙しかったのです。
なぜ忙しかったのか、宣伝を兼ねてお伝えします。
まず、11月1日に僕の『自殺』という本が朝日出版社から出ます。ブログで連載していたものですが、本にするにあたり、かなり書き換えました。またブログでは書かなかった章を1つ加えました。その原稿やら校正やらで忙しかったわけです。この『自殺』は、自殺を勧める本ではありません。自殺を思い留まって欲しいということで書きました。暗くないですからみなさんぜひ読んでください。
それと、11月15日に僕が最初に書いた本『素敵なダイナマイトスキャンダル』が復刊ドットコムで復刊されます。北宋社、角川文庫、ちくま文庫と渡り歩いた本ですが、今度は再び大きくなって四六版です。僕が42年前に描いた恥ずかしい劇画も掲載されますので、こちらのほうもよろしくお願いします。
2. 逃げて、川崎
中学を卒業して同級生の半分は金の卵になったのですが、自衛隊に入った同級生もいました。自衛隊に入れば、給料をもらいながら勉強もでき、特殊自動車の免許も取らせてもらえるとかで、その同級生は張り切っていましたが、曲がりなりにも軍隊ですから、そんなに簡単に入っていいものかと思ったりしました。それに、僕は自衛隊そのものが嫌いでしたから、自分とはまったく縁のないところだと思っていました。
ところが、日本精線に入社して2ヵ月を過ぎた頃、新入社員は自衛隊に体験入隊させられるという噂が流れました。寝耳に水というか、不意打ちというか、入るときそんなこと何も聞いてません。会社案内にそのことが書いてあったら、おそらく僕はこの会社を選ばなかったと思います。
なんでも銃弾を作っている関連会社があるそうで、その銃弾は自衛隊に納入しているらしく、そういう関係から、士気を高めるために新入社員を自衛隊に体験入隊させると言うのです。僕は集団行動が苦手だったし、嫌いな自衛隊にたとえ体験入隊でも行きたくありません。それに、士気を高めると言っても、士気なんか最初っからありません。
それまでこんな会社は辞めてしまおうと思ったり、もう少し我慢しようかと思ったりしていましたが、自衛隊の話を聞いたとき辞める決心がつきました。
といっても、行き先がありません。退社を決心したときから、新聞の求人欄を見て大阪市内の会社を数件廻ってみたりしたのですが、入りたい会社はありません。父親が川崎に出稼ぎに行っていたので、父親にも就職先を探していることを伝えておきました。
父親は、いまでいう派遣会社のようなところにいて、三菱重工川崎自動車製作所というところで働いていました。その会社が中途採用しているという返事がきたので、履歴書を書いて父親に送ったら、面接もなしで採用されることが決まってしまいました。また工場かと思いましたが、父親が住んでいるアパートに転がり込めば家賃がタダになるので、川崎に行くことにしたのでした。
一緒に就職したKくん以外に友達もいなかったので、辞めることになんの未練もありませんでした。しかし、入社3ヵ月で辞めるというのも何か言いづらい雰囲気だったし、言うのも面倒だったので、逃げることにしました。
逃げるにしても、まずお金が必要です。わずかな給料を2回ほどもらいましたが、手元にお金なんか残っていません。仕方がないから、枚方の電器屋さんでステレオ(いまでいうオーディオですね)を月賦(いまでいうローンです)で買い、それを寮の人に売りつけてわずかなお金を作りました。Kくんに川崎に行くことを話したら、「頑張りゃえーが」と励ましてくれました。
善は急げと、布団袋に布団を詰め込み、夕方の人のいない頃合いを見計らって寮を出ました。荷物が布団だけというのも寂しい話ですが、布団はかなりかさばります。枚方駅行きのバスに乗ると、大きな布団袋を担いで乗ってくる僕を、みんながジロジロ見ます。
枚方駅から、なぜか京都ではなく大阪に出て、東京行きの鈍行に乗りました。鈍行にしたのは、無賃乗車だったからです(入場券ぐらいは買ったかな)。
空席だらけの車内の網棚に大きな布団袋を乗せて一息ついた頃、ゴトンという音とともに列車は動き出しました。逃げているのか、何かに向かっているのかよくわかりませんが、不安はまったくありませんでした。しいて不安と言えば、車掌が回ってくることですが、鈍行だからたぶんこないと思っていました。
不安はないけど、かといって希望があるわけでもなく、なんの感慨もなく窓の外をただボーッと眺めていました。そのうち、疲れたせいもあって眠ってしまいました。
次の日の朝、列車は川崎に着きました。父親が住んでいるアパートは平間というところにあったので、川崎で南武線に乗り換えました。改札がないのでホッとしました。
川崎から4つ目の駅、平間に着いたのですが、問題はどうやって改札を通るかということです。最初は、走って改札を突破してそのまま逃げようと思っていたのですが、それには布団袋がじゃまです。ホームでしばらくたたずんでいたら、ホームの一番先のところが踏切になっていることに気づきました。電車を待つようなふりをしながらホームの端まで歩き、ホームから飛び降り、踏切から逃げました。誰も追い掛けてはきません。大成功です。
こうして、やっと平間にたどり着きました。そこは労働者の町でした。
三菱重工川崎自動車製作所は、トラックを作っている会社で、僕は精密測定というところに配属されました。流れ作業でトラックが組み立てられていくラインがある大きな工場の中に、ガラス張りで冷暖房完備の部屋があります。そこが僕の職場でした。1週間に1台、量産されているトラックのボディを抜き取りで運び込み、図面通りにできているかを測定するのが仕事でした。冷暖房完備にしているのは、計器が狂わないためです。
精密測定には、僕より10歳ほど年上の先輩が1人いました。この人は以前はテキ屋をやっていたそうで、テキ屋手帳というものを持っていて、その手帳を見せてもらうと、カレンダーに全国のお祭りが細かく記載されていました。この仕事に飽きたら、またテキ屋に戻るかもしれないと言って、その手帳を大事にしていました。
精密測定の部屋には、真ん中に水平に保たれた大きな常盤があり、その上にトラックのボディを乗せて、いろんな測定器を使って各部の寸法を測ります。その常盤の下に人が1人横になれる穴がありました。先輩はときどきその穴に入って寝ていたので、その穴はたぶん先輩が作ったのではないかと思います。トラックのボディは2日もあれば測定できるのですが、ノルマは1週間に1台です。あとは何もすることがないので、汗をかきながらラインで仕事をする人たちを横目に、先輩と交替で常盤の下に入って寝ていました。
冷暖房完備の部屋で毎日昼寝をしている僕に比べて、父親は最悪の職場で働いていました。通称「地獄の3丁目」と言われているバラシというところで、フックに引っ掛けて吊るされた真っ赤に焼けたエンジン部分の鋳物の砂を、鉄の棒で取る仕事でした。ここは仕事がきつくて、三菱重工の正社員は誰も行きたがらないので、父親のような派遣労働者を使っていました。熱くて汗だくになるので、みんな塩を舐めながら仕事をしていて、その現場を見たとき、父親がちょっと気の毒になりました。
父親が住んでいたアパートは、6畳1間のボロアパートでした。父親が三菱重工で働き始めたのは僕が高校に入った頃で、これまでずっとバラシをやりながら、三菱重工の正社員に嫉妬と恨みとコンプレックスがあったようです。僕が正社員になったことで、見返してやったような気持ちがあったのではないかと思います。そういう意味では、多少の親孝行をしたような気持ちもありましたが、父親と狭いアパートで暮らすのは苦痛でした。
父親の話はいつも暗く、あと何年働けるかわからないとか、同僚にわざと足の上に鋳物を落として骨を折って傷害保険をもらったのがいるとか、自分もやってみようかとか、聞いていて気が滅入る話ばかりでした。
父親とアパートにいるのが嫌で、土曜日は川崎のミスタウンによく映画を観に行っていました。高倉健の「網走番外地」シリーズを始め、観るのはだいたいヤクザ映画でした。土曜日は映画館はオールナイトになり、川崎の労働者で超満員でした。
映画を観ているときは現実を忘れますが、映画館から出ると、またあのアパートに帰らないといけないのかと思い、暗い気持ちになってきます。殺伐とした川崎の町を駅に向かって歩きながら、あのアパートから逃げ出すことばかり考えていました。