「流れる雲のように」 第14話 末井昭
14. 自宅で出来て高収入
あの夜と朝のあいだのストリーキングは、自分の中のモヤモヤを全部吐き出したような爽快感がありましたが、そのあとふぬけ状態になってしまいました。何もやる気が起こらず、クインビー宣伝課も休みがちになり、続けて1週間休んだあと、行きづらくなって辞めてしまいました。
辞めたのはいいけど、この先何をやったらいいのかわからず、何が出来るのかもわからず、勤め先を見つける気力もなく、毎日アパートでゴロゴロしていました。
クインビーを辞めたあと、なけなしのお金をはたいて電話を引きました。自宅で出来る仕事があれば回して欲しいと、数人の同僚に電話番号を教えていたのですが、誰からも掛かってきません。
生活費はM子に頼っていました。その頃は東芝の工場を辞め、アパートの一階にある双眼鏡のケース(革製の高級品)を作る工場に勤めていました。老人ばかり3、4人が働いている家内工業で、その工場の女性社長がアパートの大家さんでした。工場といってもほとんどが手仕事なので、騒音もなく静かなものでした。
僕の仕事は、朝M子がテーブルの上に置いている「トーフ タマゴ、油あげ」というメモを見て、近くのスーパーに買い物に行くことです。本当は喫茶店に寄りたかったのですが、そんな余分なお金はありません。アパートに戻って本を読んだりしていました。
ある日、目が覚めると窓の外でコトコト音がするので、カーテンの隙間から覗いてみると、M子がアパートの隣の大家さんの家の二階の物干し場に、仕上がった双眼鏡のケースを並べていました。晴れた日の日課で、そこにいつも並べて干しているのですが、それを見て、なぜかその日に限って、涙が出てきました。M子に働かせて、自分は何もしないでアパートでゴロゴロしている不甲斐なさや、先行きの不安や、社会の底辺でもがいているような情けなさが入り混じったような気持ちだったと思います。
一念発起、次の日から自宅で出来る仕事を探すことにしました。
自宅で出来て高収入。なんと魅力的な言葉なのでしょう。僕はこの言葉にめっぽう弱いのです。集団生活が苦手なので、自宅で、一人で出来る仕事に昔から憧れていました。
雑誌の広告に「自宅で出来て高収入」とあると必ず目が止まり、中学生のときは孔版(ガリ版です)の通信教育を受けていました。しかし山奥の村に住んでいたので、ガリ版を習っても仕事があるわけがありません。そのあたりのことはどう考えていたのか思い出せませんが、単に馬鹿だったのでしょう。
通信教育ということでいえば、高校のときは早稲田式速記を習っていました。いったい何をしようとしていたのでしょうか。工場で働くようになってからは、日美のレタリング講座というものをやっていました。これはデザインをやるようになって少しは役に立ったと思うのですが、もともと通信教育というものが好きだったきらいがあります。それも一人で出来るからでしょう。
確かに田舎では「自宅で出来て高収入」的なものはなかなかありません。しかしここは東京です。そういう仕事も必ずあるはずだと思い、新聞の求人欄を隅から隅まで見ていたら、なんと、ありました、自宅で出来て高収入の仕事が。代々木にある会社で説明会があると書いてあったので、指定された日に代々木の会社に行きました。
そしたらなんと、女性ばかり20人ほど集まっています。みなさん主婦のようです。男は僕一人で、恥ずかしくなって隅のほうで説明を聞いていました。
自宅で出来て高収入の仕事は、30センチ四方ほどの大きさのガラスに、クラシックカーや虎や瓢箪や「努力」といった文字を描くことです。といっても、その行程がかなり複雑で、まず見本となる絵をガラスにトレースします。細い面相筆を使って、透明な樹脂液で絵の渕をトレースし、指定された箇所に油性の絵の具で色を入れたり、金箔を貼ったりします。金箔は一度貼ってその上からよく擦り、その上にまた貼ります。金箔は数ミクロンという薄さで、1枚だと細かい穴がいっぱい開いているので、穴がまったくなくなるまで何枚も重ねて貼ります。そうして、金箔の上から油性の絵の具を塗り、金箔が剥がれるのを防ぎます。あとははみ出した金箔を洗い落として出来上がりです。裏返してみれば、見事な金ピカのクラシックカーが出来ているというわけです。「努力」などの文字ものは簡単で、文字の渕を透明樹脂液でトレースし、文字の中に金箔を貼るだけです。
これが何に使われるかというと、よく田舎のスナックなどに、額に入った金ピカの虎とかの絵が飾ったりしているのを見たことはありませんか。あれです。
これを作る道具、つまり面相筆や油性絵の具や透明樹脂液や金箔(金箔は高いと思っていましたが1枚1円ぐらいでした)などをまず買わされます。そして、自分が出来そうなものの下絵とガラス板をもらい、自宅で作業します。クラシックカーなど細かいものは1枚確か2000円(いまのお金に換算すると8000円ぐらいでしょうか)、文字だけのものはその半分ぐらいで買い取ってくれるのです。クラシックカーは3日ぐらいはかかるので、自宅で出来て高収入とまではいきません。
それでも、やりました。他に仕事もないし、デザイナーをやっていたから、面相筆などは使い慣れていたので、一番難しいクラシックカーに挑戦しました。そして出来上がったものを代々木の会社に持っていくと、検査がありました。指定通りにきれいに出来ているかチェックし、色ムラや、絵の具や金箔が指定場所よりはみ出ていたりすると買い取ってもらえないのです。結構厳しい仕事です。
あるとき、M子のお父さんが東京に出てくる用事があって、僕らのアパートに一泊することになりました。そのときはおそらく籍を入れていたと思いますが、結婚式もしていないし、M子の両親に挨拶にも行っていなかったので、お父さんに会うのは初めてです。かなり緊張していました。
僕はまだクラシックカーの仕事を続けていたのですが、その仕事をやっているときにお父さんがやってきました。お父さんは無口な人で、僕がクラシックカーの仕事をやっているのをじっと見ていました。狭い6畳の部屋に気まずい雰囲気が流れます。自分の娘婿が内職のような仕事をやっている、あれで生活が出来るのか、と思ったようで、僕のそばに来て「それはいくらになる?」と一言だけ聞きました。僕は正直に「2000円」と答えて、そのまま仕事を続けていました。
その仕事は1ヵ月ほど続けたのですが、割が合わないのでやめました。代々木の会社で「もうやめます」と言うと、金箔を貼る技術で金文字を描く仕事が出来ることを教えてくれました。よく不動産屋さんの入口のガラスドアなんかに、金文字で書いているあれです。代々木の会社は金箔を買ってもらえるので教えてくれたのでしょう。
やり方はクラシックカーと同じです。まず薄い紙に文字の下書きをし、それをガラスドアにセロテープで止め、裏から透明樹脂液で文字の縁取りをし、金箔を何枚も貼り、その上にペンキを塗り、乾いたらはみ出した金箔を水で洗い落として出来上がりです。クラシックカーより簡単ですが、仕事は自分で見つけなければなりません。
僕は住んでいる祐天寺を中心に、不動産屋や質屋を廻りました。お金がありそうなところはすでに金文字になっていて、お金のなさそうな不動産屋は、金文字が似合わないたたずまいで、当然ながら断られます。やっと金文字に反応してくれたのが、祐天寺の質屋でした。
太った質屋のご主人が「入口のガラス戸に書いてもらいたいんだけど、いくらするの?」と聞くので、「一文字3000円です」と咄嗟に口から出ました。「3000円? うちは5文字だから全部で15000円じゃない。高いなぁ」と言うので、「金ですから」と言うと、「金じゃしようがないなぁ」と言います。
後日、お客さんがあまり来ない午前中に仕事をさせてもらうことにしました。前もって紙にレタリングした質店の名前をガラス戸にテープで止め、裏から透明樹脂液でトレースします。ご主人は興味深そうに見ています。ここからが金箔師の腕の見せどころです。まず、金箔が入った箱をさも大事そうに取り出し、薄紙に挟んである金箔を、指先でつまんで文字の部分に息で吹きかけます。1枚吹きかけてはティッシュで擦り、また1枚吹きかけては擦りで(擦ると表側の金が光るのです)、約3時間ほどで金文字を完成させました。
15000円貰って、その日はM子と寿司屋に行ってお好みで寿司を食べました。