「流れる雲のように」 第12話 末井昭
12. 日本万国博覧会
新宿中央口クインビーの「お色気万博・世界の国からコンニチワ」は、いまいち盛り上がらなかったようで、短期間で終わってしまいました。店内に飾ったデコレーションは渋谷の東京都児童会館に寄付したそうです。寄付といっても、果たして児童会館がそれを喜んだかどうか。その中にチンポコの塔があったかどうか定かではありませんが、あったとしたら児童会館はどう思ったか。「こんなものを!」と怒ったか、キャバレーだから仕方がないと思ったか。いずれにしてもチンポコの塔が児童会館に運ばれたことを想定して、一人であれこれ想像していました。
盛り上がらないお色気万博に比べ、大阪の千里丘陵で3月から開催されている万博のほうは大盛況のようでした。
高度経済成長を遂げ、アメリカに次ぐ経済大国となった日本を象徴する国家プロジェクト、日本万国博覧会。著名な建築家や芸術家、デザイナーが起用され、横尾忠則さんや粟津潔さんも参加していました。しかし、『デザイン批評』の編集委員でもある反体制的デザイナーの粟津さんが万博に参加していることに、何か腑に落ちないものがありました。造反有理の反体制小僧としてはもちろん万博に反対でしたが、日本の中枢のクリエーターを集めていったい何が行われているのか知りたいという好奇心で、万博を見に行くことにしたのでした。
大阪には弟が住んでいました。弟は某大手カツラメーカーのセールスマンをしていて、その会社の寮に住んでいたので、そこに泊めてもらうことにしました。
弟と会うのは3年振りでした。弟は僕が高校を卒業したと同時に中学を卒業し、大阪で働いていたのですが、1年後に岡山に帰り、一人で下宿して高校に通い、卒業してカツラ屋に勤めたのでした。
弟はカツラのセールスマンですが、頭髪の薄い人を見つけて「あのぉ、いいカツラがありますよ」とか言って営業するわけにはいきません。訪問販売もダメです。まずは広告を出して、蜘蛛が巣にかかる獲物を待つように、広告を見て来る客をじっと待つのです。ひと頃テレビなどでやたらカツラ屋の広告が多かったのはそのためです。
弟が事務所で電話が来るのをじっと待っています。すると電話がリーンと鳴り、弟は電話を取ります。女の人からの電話です。「うちの子やけど、頭がハゲてもうてな、家から出ないんやわ。うちの子に被せる何かええカツラないやろか」みたいな内容です。つまり、その女の人の息子は若ハゲで、女の子にモテないのも、内気なのも、学校の成績が悪いのも、自分のマイナス部分は何もかもハゲのせいにして、家に引きこもっているわけです。弟は「わかりました。すぐお伺いします」とか言って、住所と電話を聞いて出かけます。カツラのセールスマンはこれからが仕事です。
カツラの見積もりを出すには、まずハゲた部分の面積を計算します。そのためには、メジャーでハゲた部分の寸法を測らないといけません。弟はカバンからメジャーを取り出し、母親に案内されて息子の部屋に行きます。ドアを開けると、いきなり物が投げつけられました。怪我はしなかったものの、カツラの営業は命がけです。ここで息子を取り抑え、無理矢理ハゲの面積を測る、というわけにはいきません。何回も通い、カツラがいかにいいかという説明をし、息子と気持ちが通じ合うまで頑張ります。そして、ついに息子のハゲの面積を測定することに成功します。
ところで、カツラの値段というものは、思った以上に高いものだそうです。弟は息子のハゲの面積から計算して見積書を作り、母親に渡します。その見積書を見ていた母親は、思ったより高いと思ったのか「少し考えさせてくれませんか」と言います。そして4、5日経って、その母親から「あのぉ、今回の件はないということで」という断りの電話が入ります。このときの弟の捨て台詞です。「お前の息子は一生ハゲでいろ!」ガシャン!
ガシャン!は電話を切る音です。結構恐いですよね。でも、兄弟だからかばうわけではないのですが、弟は息子に物を何度もぶつけられ、かなりのストレスを抱えながらやっと見積もりまでこぎつけたわけです。最後の捨て台詞は、僕はカッコいいと思いました。
まぁ、そういうヤクザな仕事をしている弟の部屋に泊まり、翌日、新大阪駅で東京から来るM子と、その頃は岡山に帰っていた父親と待ち合わせして、万博を見に行きました。万博見学のついでに親孝行でもしておこうという魂胆です。
万博会場に行ってまず目についたのは、岡本太郎の太陽の塔です。チンポコの塔とは比べ物にならないくらい(当たり前ですが)巨大な塔で、なかなか見応えがありました。横尾忠則さんがデザインした、工事を途中で凍結した状態のせんい館の外観もカッコいいと思いました。「死の観念は死に至るプロセスの中に含まれる。完成することは死を意味しているのである」と横尾さんは言っていて、それを表現したもののようでしたが、大方の人は「ああ、工事が間に合わなかったんだな」と思ったようです。
あとはもうすべてがガラクタのように見えて、感動したものは何もありません。なんだか、やたらと館内に映像が映されていた印象だけが残っています。
東京に戻ると町が騒がしく感じられました。6月に日米安保条約が自動延長されるので、それを阻止する学生たちの街頭闘争で町は騒然としていました。しかし、6月23日に安保条約はあっさり自動継続になってしまいました。
僕はその日の夜、上野クインビーで青山ミチのステージを観ていました。1963年に「ミッチー音頭」がヒットして有名になった黒人との混血歌手です。月に1回は往年の歌手が営業で上野クインビーに来ていましたが、青山ミチはそれまでの歌手とは違っていました。キャバレーのステージなのに、本気で一生懸命歌っているのです。「叱らないで」を聴いたとき思わず涙が出ました。それはセンチメンタルな涙なのですが、学生たちがあんなに反対運動をしても体制が何も変わらないという虚しさもあったかもしれません。そしてその虚しさは、僕自身の問題とも関係がありました。
仕事は相変わらず、車内刷りポスター、外撒きチラシ、新聞折り込みチラシ、浴場ポスターなどのデザインをやっているのですが、仕事に力が入らなくなっていました。自分の考えていることとやっていることが、どうにも一致しないのです。
そんなとき、目黒クインビーの店長からチラシを作って欲しいという電話がかかってきて、僕が打ち合わせに行くことになりました。
「今度さぁ、おらが国さのオシンコ祭りってのをやりたいんだけど、チラシ作ってくれる?」と、眼帯した店長が言います。上野クインビーのようなステージのある大箱の店ではなく、薄暗いピンクサロンのような小さなお店です。メモを取る僕に、店長は「オシンコ祭りのところをオ○ンコ祭りにしたら面白いよね」と言います。
僕は何か大きな勘違いをしているような気がしました。何がアンチモダニズムだ、何が情念のデザインだ、ただ自己表現したいだけじゃないか。キャバレーはキャバレーでしかないのだ。気がつくのが遅いといえば遅いのですが、眼帯の店長と打ち合わせしていてそう思ったのでした。
眼帯の店長は、おそらく客とトラブルになり、目のあたりを殴られたのだと思います。みんな体を張って働いているのです。ホステスさんだって客とのトラブルは日常茶飯事なのに、笑顔で客に接しています。青山ミチだって、キャバレーなのに手を抜かず一生懸命歌っているのです。
隅でお客を待っているホステスさんをチラッと見ると、その中の一人と目が合いました。店長が「遊んで行く? 時間あるんでしょう」と言います。僕は「いや、仕事があるんで」と言って店を出ました。
外は雨でした。自分はこの先何を指針にデザインすればいいんだろうと思いながら、雨の中を歩いていました。